
ルーマニアと日 本をつなぐ架け橋

@ Ionel Onofraș
ルーマニア情報
ルーマニア Romania ヨーロッパ南東部にある共和国。正式国名はルーマニア。バルカン半島北東部に位置し、ウクライナ、モルドバ、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴスラビア(新)のセルビアと国境を接し、東は黒海に面する。
1947年に王制を廃してルーマニア社会主義共和国を樹立、以来、共産党政権がつづいていたが、89年末から複数政党制に移行し現国名に改称した。
面積は23万7500km2。人口は約2861万人(1996年推計)。首都はブカレストで、同国最大の都市。
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国土はほぼ楕円形をなし、東西の最長部は約740km、南北は約475kmである。地形は変化にとむ。
中央部のトランシルバニア台地は丘陵が多いが、渓谷や耕作に適したなだらかな斜面がある。台地は山脈にかこまれ、東には東カルパチ山脈が南東方向にはしり、南ではトランシルバニア・アルプスが東西にのびてドナウ川の「鉄門」とよばれる峡谷へとつづいている。ルーマニアの最高峰モルドベアヌ山(2544m)はトランシルバニア・アルプスにある。台地の西側にはビホル山地がみられる。
これらの山脈の外側には平野が広がる。西部では、通常バナトとよばれるティサ平原がセルビアとの国境へ、クリシュ平原がハンガリーとの国境へ広がっている。南部ではトランシルバニア・アルプスとブルガリアの間のワラキア平原、東部ではカルパチ山脈の東側のモルドバ平原がもっとも広大である。黒海沿岸のドブロジャ台地は南のブルガリアまでつづいている。
主要河川はドナウ川で、大部分が南の国境となり、セルビアおよびブルガリアと接している。
鉄門付近とドナウ・デルタは湿地帯である。ほかに、ティサ川に流入するムレシュ川、モルドバとの国境となるプルート川や、オルト川、シレト川などがあり、いずれもドナウ水系に属する。山地には小さな淡水湖も多いが、黒海沿岸には大きな塩水湖があり、ラゼルム湖が最大である
ギリシア正教会からわかれたルーマニア正教会が最大の宗教組織で、国民の70%がその信徒である。ハンガリー人にはローマ・カトリック教徒ドイツ人にはプロテスタントが多い。また、ブカレストにはユダヤ教徒がおり、ドブロジャのタタール人やトルコ人にはイスラム教徒がみられる。
公用語はルーマニア語で、ほぼ100%の国民が話す。ほかにハンガリー語、ドイツ語、トルコ語、セルビア・クロアチア語、イディッシュ語なども使用されている。
ルーマニアは第2次世界大戦以前は農業国だったが、戦後は一連の5カ年計画によって工業国への転換をはかってきた。
しかし、重工業の偏重により、慢性的な消費財の不足や深刻な環境汚染がおこった。
1989年12月にチャウシェスク政権が崩壊した後、経済は実質的に解体し、輸出が激減した。90年に導入された市場経済への移行をめざす経済改革で、通貨の切り下げ、消費財の補助金カット、国営企業の民営化などが実施された。
急激なインフレがおこったが、94年5月のIMF(国際通貨基金)からの融資により沈静化にむかっている。
おもな港湾は黒海沿岸のコンスタンツァ、ドナウ川下流のガラツィ、ブライラなどにある。ジュルジュは、プロイエシュティ油田からのパイプラインをもつ河川交通の要衝。1984年開通の運河により、コンスタンツァとドナウ川の港町チェルナボダがむすばれた。92年にはマイン・ドナウ運河が完成し、ライン川を経由して黒海から北海への輸送が可能になった。
国営タロム航空と民間のラル航空が、ブカレストと国内および海外の主要都市とをむすんでいる。
郵便、電信電話は国営である。新聞は地方紙が主体で、国内に居住するさまざまな民族の言語による新聞や雑誌も数多くでている。
1989年のチャウシェスク政権の崩壊後、日刊紙が36紙から100紙にふえた。
医療、保養施設での休暇、年金をはじめとする社会保険の給付は政府がおこなう。病院や養護施設は、非衛生的で不適格な状態のものが少なくない。
チャウシェスク政権時代は出生率を高めるため避妊や妊娠中絶が禁じられていたが、1989年の政変後に合法化された。
第2次世界大戦がはじまると、ルーマニアははじめ中立の立場をとっていたが、1940年6月、ドイツと不可侵条約をむすんでいたソ連がベッサラビアと北ブコビナを占領。さらにイタリアとドイツの圧力により、8月にトランシルバニア北部をハンガリーに、9月に南ドブロジャをブルガリアに割譲した。同じころ、ルーマニアはドイツに占領され、イオン・アントネスクの親ドイツ政権が成立する。カロル2世は亡命し、かわってミハイ1世が即位したが、実権はアントネスクと鉄衛団の手中にあった。
1941年6月の独ソ戦の勃発に際し、ルーマニアはドイツのソ連進攻に参加し、大戦に正式参戦した。ルーマニア軍はベッサラビアとブコビナを奪回し、12月にはアメリカ合衆国に宣戦を布告した。国内では民族農民党などが反戦運動をくり広げ、44年春、ソ連軍のルーマニアへの反撃がはじまるといっそう活発化する。8月、ソ連軍の入城と同時に国王ミハイと側近の軍人がクーデタでアントネスク政権をたおし、連合国への降伏をもうしでた。
1944年9月のソ連との休戦成立後、共産党、自由党、民族農民党などによる国民民主戦線が政権をとったが、ソ連を後ろ盾にもつ共産党がしだいに実権をにぎっていった。45年3月に耕民戦線のペトル・グローザを首班として成立した政権は、46年11月の総選挙をへて完全に共産党主導となった。47年12月、国王ミハイは退位し、ルーマニアは人民共和国を宣言する。48年4月にはソ連憲法をモデルとする新憲法が制定された。
この間、1947年2月には連合国との間にパリ講和条約がむすばれた。これにより、ルーマニアはトランシルバニア北部の領有をみとめられたものの、ほかの領土については40年におこなった譲渡が正当とされた。さらにソ連に対する重い賠償を課せられ、軍備を制限された。